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Article: 1873年、京都の花簪はウィーンへ渡っていた。つまみ細工と海外の、百五十年の記録。

『東京勧業博覧会審査報告』89頁「装身具及化粧用品輸出表」。明治35年から39年までの輸出先別金額を並べた表で、明治39年は清国32万5006円、韓国7万5647円、北米合衆国1万488円、合計49万4041円(明治41年・国立国会図書館蔵)
つまみ細工

1873年、京都の花簪はウィーンへ渡っていた。つまみ細工と海外の、百五十年の記録。

いま、つまみ細工を海外に向けて紹介する仕事をしています。英語の講座を作り、海外のお客様に髪飾りをお届けしています。

新しいことをしているつもりでいました。ところが記録を追っていくと、この手仕事が海を渡ったのは、思っていたよりずっと早い。日本が初めて国として万国博覧会に参加した、その回にはもう出ています。

明治6年、ウィーン万国博覧会

1873年(明治6年)、ウィーンで万国博覧会が開かれました。明治政府が国家として本格的に参加した最初の万博です。

このとき京都から、花簪20本と花櫛10枚が出品されています。

出品者の名前も住所も残っています。京都府 寺町通松原下ル植松町、福田吉兵衛。いまの寺町通です。

日本側に残っている出品目録の草稿には、花簪20本の意匠が一本ずつ書き出されています。藤笠、かぶと、矢車、鈴虫篭、両矢車、銀蝶々、松鶴桜、松鶴、燈籠、花草、雪月花、梅鳥篭、牡丹に孔雀、太鼓鶏、七輪菊、松島、鳥篭、月兎浪、糸二重笠、唐獅子牡丹。各一本。花櫛のほうは石竹花、八重菊、鉄仙花、桜花、梅花、菊花、松に鶴、松竹梅、松鶴菊、菊枝付の10枚です。

いま私たちが作っているものと、名前だけ見れば地続きです。矢車も、松に鶴も、唐獅子牡丹も、そのまま通じます。

面白いのは、この日本側の草稿と、ウィーンで配られたドイツ語の公式目録が、出品番号のレベルで一致することです。ドイツ語目録の626番に「絹製の髪飾、Fukuda Kichibe、Kioto」、627番に「Haarnadeln(簪)」とあります。日本側の草稿の六二六・六二七と、番号が合う。

福田吉兵衛という名前は、その4年後にもう一度出てきます。1877年(明治10年)の第一回内国勧業博覧会で、京都・寺町松原下ルの福田吉兵衛が花簪と造花を出品し、褒状を受けています。国の審査官の評は「製作艶麗愛す可し。杉片を以て山茶花を作り着色せざる者、亦新様」。杉の薄板で山茶花を作り、あえて色を付けなかったところが新しい、という評価です。

値段が付いていた

このウィーンの花簪について、もうひとつ分かっていることがあります。

日本側の目録草稿には、品ごとに「元」と「売」の二つの値段が書かれています。元十銭に対して売五十クロイツァー。元九銭に対して売五十クロイツァー。元三銭五厘に対して売三十クロイツァー。原価と、現地での売値です。

つまり、風俗の展示物としてだけ送ったのではない。値付けまで済ませて、現地で売る前提で船に載せている。

そして、この花簪を買い上げて送ったのは京都府でした。京都府の文書に「花簪類三十点之代」として二円五十四銭三厘という買上代金が記録されています。府が公費で三十点を買い上げ、ウィーンへ出した。個人の商売としてではなく、京都という産地を売り込む仕事として送られたものでした。

ヨーロッパの公式報告書が、産地を名指ししている

ウィーン万博の翌年、1874年に、ドイツ側の公式報告書が刊行されています。その中に、こんな一文があります。

絹、薄い金銀の箔、あるいは金銀を貼った紙による花束その他の飾りを付けた簪も、この部類に属し、主に大阪と京都で作られる。

明治6年の時点で、ヨーロッパの公式文書が、花簪の材料と産地を書き留めている。絹と金銀の紙、大阪と京都。いま私たちが使っているものと、材料の名前が変わっていません。

ひとつ付け加えておくと、この記述が置かれているのは「玩具」の章で、羽子板の押絵の話のすぐ後です。ヨーロッパ側は、花簪を工芸ではなく、羽子板と同じ棚で理解していたことになります。後年、日本の国の分類でも押絵と摘細工が同じ類に置かれますから、見え方はどこか似ていたのかもしれません。

「輸出」と聞いて、私が思い違いをしていたこと

ここから先が、調べていていちばん驚いたところです。

つまみ細工や花簪が海外に売れていた、と聞くと、つい欧米を思い浮かべます。私もそうでした。違いました。

1903年(明治36年)、大阪で第五回内国勧業博覧会が開かれます。その審査報告に、産地の分業がはっきり書かれています。

輸出向のものは大阪、内地用のものは東京、鼈甲製品類は長崎・京都、金属製花簪類は愛知、木櫛は長野および泉州堺。

そして輸出先が続けて書かれています。支那・朝鮮・印度等に輸出する品類を開発増加し、と。近年、鏡や金属製花簪、櫛や腕輪などが、支那・朝鮮・印度その他東洋諸国に輸出されるものが少なくない、と。

欧米ではありません。アジアです。

数字も残っています。1908年の東京勧業博覧会審査報告に、大蔵省が調べた「装身具及化粧用品」の輸出表が載っています。簪はこの類に含まれます。明治39年(1906年)の輸出額は494,041円。そのうち清国が325,006円で全体の66パーセント、韓国が75,647円で15パーセント。北米合衆国は10,488円で、2パーセントです。明治35年からの5年で、輸出額は7倍以上に伸びています。ただし伸びた先は、ほぼアジアでした。

実際に売れている現場の報告もあります。明治末の満洲・奉天についての通商報告に、大阪製の大輪花簪が、元価二十銭見当、小売五十銭ほどで、現地の上流の人や妓楼に多少需要されている、と書かれています。同じ報告は、中国市場では造花のうち花簪の売れ行きがいちばん大きい、とも書いています。

さらに、送られていたのは完成品だけではありませんでした。奉天の女子師範学校が造花・編物・摘み細工を教えており、東京の商店が材料を供給し、摘み細工の原料である軽目羽二重を輸入していた、という報告があります。技術と材料そのものが出ていた。

「造花」はアメリカ、「花簪」はアジア

もうひとつ、はっきり分かれていたことがあります。

日本の貿易統計に「造花」という輸出品目が新しく立つのは、大正6年(1917年)です。それ以前の年表には、造花も簪も小間物も、独立した品目として出てきません。

その大正6年の造花の輸出額は108,106円。そのうち北米合衆国が71,801円で、およそ66パーセントを占めています。

明治期の「装身具及化粧用品」が清国6割、大正6年の「造花」がアメリカ6割。まったく逆の顔をしています。

同じ絹の花を作る手から出ていながら、洋間や帽子を飾る「造花」はアメリカへ、髪に挿す「花簪」はアジアへ。別々の市場に出ていたのだと思います。

そして「花簪」という品目は、統計制度の上では最後まで独立しませんでした。明治30年(1897年)には東京花簪工業組合という同業組合が実在していて、国の商標分類には「造花及花簪ノ類」という区分もあったのに、貿易年表には最後まで載らない。「装身具及化粧用品」や「其他ノ雑品」に埋もれたままです。

明治41年、国が書いた「輸出品にせよ」

1908年(明治41年)の東京勧業博覧会の審査報告に、この記事の中心になる一節があります。

第十三部に、装身具・頭飾品、造花、そして「押絵及摘細工品」が並んでいます。つまみ細工は造花の隣、同じ類の枝番に置かれていました。国の博覧会の分類名に「摘細工」が採用された、最初期の例です。

評価は率直に言って厳しいものでした。出品はごくわずかで、作品は従来から簪に用いてきたものと少しも変わらず、数十個の摘花を集めて薬玉を作り、室内装飾に擬した程度である、と。

その厳しい評のあとに、こう続きます。

決して軽視すべきものではない。その応用・意匠・考案がよろしきを得て、輸出品などに利用することができれば、さらに今日の面目を一新するものがあるだろう。当業者の熟考を望む。

国の公式記録が、この手仕事に向かって「輸出品に応用せよ」と書いている。これを読んだときは、しばらく手が止まりました。

ここで正確に読んでおきたいのは、国が言っているのは「花簪を輸出品にせよ」ではない、ということです。同じ報告の造花の項は、婦人髪飾用を「内地向」に分類し、輸出向は食堂装飾用・夜会装飾用・帽子飾用と切り分けています。髪飾りは内地のもの。つまみ細工は、簪から離れて別の形になれば輸出品になりうる。国はそう書きました。

「摘ミ細工、小形写真立・香具箱」

その2年後の記録が、この読み方を裏づけます。

1910年(明治43年)、ロンドンで日英博覧会が開かれました。その事務報告に載っている出品点数の計算標準に、独立した見出しとして「摘ミ細工」が立っています。そして例示されている品目が、これです。

小形写真立類、香具箱類は六箇を以て一点とす。

簪ではありません。写真立てと、小物入れ。洋間に置くものです。同じ規程の装身具の項には「花簪は一箇を以て一点とす」と、花簪も別に立っています。つまり1910年の時点で、国が海外向けに想定していたつまみ細工は、髪飾りではなく洋風の小物のほうでした。

面白いことに、1914年(大正3年)に出た『女子技芸摘み細工全書』という教本には、まさに「写真挟」の作り方の章があります。国が博覧会で例示した品目と、教本が教えている品目が同じです。当時、つまみ細工で写真立てを作るのは、それなりに一般的な発想だったのだと思います。

もっとも、うまくいったとは書かれていません。1911年(明治44年)の農商務省の報告は、造花・押絵・摘み細工などに至っては、いまだ重要輸出品たるに足らず、とはっきり書いています。国が「輸出品にせよ」と書いた3年後に、国自身が「まだなっていない」と書いている。

ウィーンに、いまも残っているもの

最後に、ひとつだけ、まだ結論の出ていない話を書いておきます。

ウィーンの世界博物館(Weltmuseum Wien)に、ハインリヒ・フォン・シーボルトが集めた日本の髪飾りが所蔵されています。受入は1889年(明治22年)。同館は当時の受入台帳の写真も公開しており、手書きでこう記されています。アジア、日本、コル・シーボルト。33143から155、十三本の簪。骨製で、絹地の造花の小さな花束を付け、一部は金糸の飾りで豊かに装飾されている。十三点。材質の表示は、骨、絹、金糸。

当方の職人がオンラインの画像を見たかぎりでは、このうち少なくとも2点に、つまみの技法が使われているように見えます。ただしこれは画像による見立てで、実物を見ていません。確定ではありません。

そしてもうひとつ、はっきりさせておきたいことがあります。この一群が、1873年の万博に出された品だという記録は、館のどこにも書かれていません。受入は万博の16年後です。収集者のハインリヒは、万博に随行した兄のアレキサンドルとは別人で、本人が万博に関わったかどうかも確かめられていません。

そもそも、花簪の輸出先が実際にはアジアだったことを考えると、この一群を「輸出品として売られたもの」と考えるのは無理があります。日本で実際に使われている日用品として集められた、と見るほうが自然です。ただしそれも、いまのところ推測です。

決着をつける方法は一つだけあります。日本側の目録草稿に残っている20本の意匠名、藤笠・矢車・鈴虫篭・唐獅子牡丹といった名前と、ウィーンに現存する品の意匠を突き合わせることです。一致すれば議論ができます。一致しなければ別系統。これはこれから確かめます。

百五十年たって

まとめると、こういうことになります。

明治6年に、京都の花簪は値段を付けてウィーンへ渡った。ヨーロッパの公式報告書は、産地が大阪と京都であることを書き留めた。しかしその後、継続的な欧米向けの輸出には育たなかった。実際に伸びたのはアジア向けで、日本の統計に「花簪」という品目が立つことは、ついに一度もなかった。国は明治41年に「輸出品に応用せよ」と書いたが、3年後に自分で「まだなっていない」と書いた。

宿題は、終わっていません。

私たちがいまやっているのは、その続きだと思っています。ただし、やり方は変えました。安く大量に作って売るのではなく、作り方のほうを伝える。一枚ずつ折っていること、糊がでんぷんであること、なぜこの形になるのか。それが分かってはじめて、この花の値段の理由が伝わります。海外向けの動画講座を作っているのは、そのためです。

百年前の教本も、実は同じ問題に触れています。外国の人はこの細工を、ただ鹿の子絞りのような切れを貼ったものだと思っている、と。その話は、別の記事に書きました。

明治42年の教本に書かれていた、つまみ細工の海外販路の話

この記事の英語版はこちらです。In 1873, Kyoto Hana-Kanzashi Crossed to Vienna

おはりばこについてはこちらをご覧ください。おはりばこについて

つまみ細工を手で覚えてみたい方は、教室でお待ちしています。京都の教室についてオンライン講座について

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出典

横溝廣子「ウィーン万国博覧会出品目録草稿(美術工芸編)三」『美術研究』第359号、1994年3月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 7964462、コマ31。原本は東京国立博物館蔵「第十一区ヨリ第廿五区マデ目録草稿」。

『Catalog der kaiserlich japanischen Ausstellung』Wien, 1873(日本博覧会事務局)。Internet Archive、`catalogderkaise00japagoog`。 https://archive.org/details/catalogderkaise00japagoog

『Amtlicher Bericht über die Wiener Weltausstellung im Jahre 1873』III-2, Braunschweig: Vieweg, 1874, S.659。Internet Archive、`amtlicherberich00weltgoog`。 https://archive.org/details/amtlicherberich00weltgoog

『ウィーン万国博の研究』(京都府文書「澳国博覧会へ出品御買揚代金」書上の翻刻を収む)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 13896595・13896561、コマ194-197・208。

『明治十年内国勧業博覧会出品目録』4/『同 審査評語』。国立国会図書館デジタルコレクション PID 801851 コマ86/PID 801856 コマ199。

『第五回内国勧業博覧会審査報告』第7部、1904年。国立国会図書館デジタルコレクション PID 994151、コマ56-57(同文 PID 900917 コマ56)。

『東京勧業博覧会審査報告』(書誌上は巻3、収録は巻七・巻八相当)、東京府、明治41年(1908年)12月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 801790。輸出表はコマ61、造花の項はコマ72、押絵及摘細工品の項はコマ73。

『通商月報』第187号。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1547088、コマ3・5。

『農商務省商品陳列館報告』第40号、1911年7月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1532271、コマ6・38・40。

『大日本外国貿易年表』大正6年上篇。国立国会図書館デジタルコレクション PID 974534、コマ210。

『日英博覧会事務局事務報告』上巻、農商務省、1912年。国立国会図書館デジタルコレクション PID 801796、コマ171。

『農商務統計表』第28次(明治44年)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 973123、コマ381(商標登録種類別「玩具、遊戯具、造花及花簪ノ類」)。

『東京府統計書』明治30年。国立国会図書館デジタルコレクション PID 806577、コマ161(東京花簪工業組合)。

吉岡房次郎『女子技芸摘み細工全書』1914年。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1185204。

ウィーン世界博物館(Weltmuseum Wien)オンライン目録、Inv.33143 以下の髪飾群。 https://www.weltmuseumwien.at/

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