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Article: つまみ細工の起源はどこまで遡れるのか。幕末の風俗記が書いていた「花簪」の正体。

『摘み細工指南』251頁「摘み細工の発明と折紙細工」の本文。欄外見出しは「発明者詳かならず」で、発明者は詳かに知ることが出来ないが古くから高貴の家庭に行われ初めたものだ、と記す(明治42年・国立国会図書館蔵)
つまみ細工

つまみ細工の起源はどこまで遡れるのか。幕末の風俗記が書いていた「花簪」の正体。

つまみ細工の歴史を調べようとすると、たいてい「江戸時代から続く伝統工芸です」というひと言で終わってしまいます。では、江戸時代の花簪とは、実際にどんなものだったのか。誰が挿していたのか。

京都 おはりばこでは、明治と大正の教本を現代語に訳す作業を続けてきました。その過程で、教本よりさらに古い一次資料に行き当たりました。国立国会図書館デジタルコレクションで誰でも読める、幕末の風俗記です。そこには、いま私たちが思い描く花簪の像とは、少し違う姿が書かれていました。

幕末の風俗記が、花簪を定義していた

喜田川守貞『類聚近世風俗志』、通称『守貞謾稿』。江戸・京・大坂の三都の暮らしを、品物の形から値段まで細かく書き分けた、幕末の記録です。稿が成ったのは嘉永六年(1853年)ごろとされます。

この本が、簪の項でこう書いています。

花簪の類は竹串の如きに縮緬製の造花を付る也。

竹串のようなものに、縮緬でこしらえた造花を付けたもの。これが幕末の「花簪」でした。素材は縮緬、つまり絹です。芯は竹。つまみ細工の花簪と、材料の構成がそのまま重なります。

つまみ細工という語そのものは、ここにはまだ出てきません。けれど「縮緬製の造花を竹串に付けたもの」が花簪と呼ばれ、三都に共通の商品として流通していたことは、この一行で確かめられます。

挿していたのは、芸妓ではなく幼女だった

同じ本の別の箇所は、売り場と着用者まで書いています。

花簪は三都とも小間物店に賣之、また稠人の街に至て小賈之を賣る。花見遊山の所も亦之を賣る。皆幼女の所用のみ。

三都とも小間物店で売り、人出の多い街では小商いの者が売り、花見や遊山の場所でも売っている。そして、みな幼女が使うものである、と。

さらに続けて、妓婦等も往々戯に之を差す者あれども稀とす、と書きます。芸妓のたぐいがふざけて挿すこともあるが、それは稀だ、という意味です。

守貞はもうひとつ、花簪の用途を書き留めています。手習いや三味線の師匠が、男女の子どもたちを連れて花見に出かけるとき、群れからはぐれて迷子になるのを恐れて、みな必ず花簪を頭に挿させた。目印だったのです。

つまり幕末の花簪は、花柳界の装いではありませんでした。子どものもの、それも迷子除けを兼ねた、街で買える安価な品でした。

「つまみ細工といえば舞妓の花簪」という現在の常識から見ると、これは意外な記述です。けれど一次資料は、そう書いています。舞妓の花簪がいつからつまみ細工になったのかは、それ自体が別の大きな問いで、私たちはまだ答えを出せていません。この連載のどこかで、あらためて取り上げるつもりです。

明治十九年、大阪から東京へ持ち込んだ男の話

時代が明治に入ると、当事者の肉声が残っています。

篠田鉱造『明治百話』(昭和六年=1931年刊)に「花簪の元祖 花龜」という一章があります。大阪で花簪づくりを覚え、東京へ出て売り出したという男の、一人称の回想です。本人はこう語っています。

大阪で花簪を製造する家に世話になって製造を覚え、東京にはまだその花簪が開けていない、流行っていないことに目をつけて、東海道を歩いて出てきた。それは明治十九年(1886年)だった。東京の花柳界は盛大だが、花簪というものが流行っていない。これはひとつ、京大阪の舞子や藝子が挿しているあの「花簪」を流行らせてやろう、素人の娘にも流行らせてやろうと決めて取りかかり、つまみもの花簪を売り出した。東京には珍しいつまみ細工の花簪だった、と。

語り手は、房の下がったつまみ細工の花簪が東京の花柳界に売れ、山の手の官員の令嬢が高島田の横に挿すようになり、注文が家族と内職の女手では追いつかなくなった、市内に二百人からの家持職人ができた、とも語ります。

この一節が興味深いのは、「京大阪の舞子や藝子が挿している花簪」と「つまみ細工」を、同じ文のなかで結んでいることです。花街とつまみ細工を結ぶ文章として、私たちがこれまでに見つけたなかでは、最も古い部類に入ります。

ただし、この話は本人の言い分である

ここは慎重に扱わなければなりません。

第一に、これは明治十九年のできごとを、四十五年後に語った回想です。同時代の記録ではありません。

第二に、語り手は「東京での元祖」を自称する当事者です。自分の商売の由緒を語る文脈で話しています。

そして第三に、反証があります。語り手が東京へ出たという明治十九年より九年前、明治十年(1877年)の第一回内国勧業博覧会の出品目録に、東京・浅草聖天町の「花簪屋巳之助」が、黄銅と羽二重の花簪を出品しているのです。羽二重は絹。つまみ細工の材料と一致します。

「東京には花簪が無かった」というのは、本人の言い分にすぎません。少なくとも、花簪屋を名乗る店が、その九年前の東京に実在していました。

それでも、この回想の価値は下がらないと考えています。明治十九年の東京で、つまみ細工の花簪が急速に売れ、内職と職人の層が厚くなっていった。その現場の手ざわりを、これだけ具体的に語る資料は他にありません。読むときに、「本人はこう語っている」という枠を外さなければよいのです。

教える側の系譜は、一代さかのぼった

つまみ細工を「教える」流れのほうも、資料が出てきました。

大正三年(1914年)の教本『女子技芸摘み細工全書』の著者、吉岡房次郎。その先代にあたるのが吉岡男成(よしおか・をなり)です。

男成は、秋田の本荘藩の士族でした。明治四年の禄高取調帳に、元高百二十石の士族として名が載っています。明治のはじめに旧藩主に随って上京し、寺田利助という人物に造花と摘細工を学び、明治十四年(1881年)に最初の教授所を開きました。明治三十五年には東京女子美術学校の教師に招かれ、東洋女藝學校を創立しています。

そして明治四十一年(1908年)十一月十五日、郷里の秋田県本荘町で亡くなりました。享年五十一。東京日日新聞の訃報は、この人を「摘細工の創始者」と書いています。

寺田利助、吉岡男成、吉岡房次郎。少なくとも師弟三代の名が、いま辿れる形で残っています。この寺田利助という人が何者なのかは、まだ分かっていません。

では、あの「やすてる卿」の話はどうなるのか

つまみ細工の起源として、こんな話が広く紹介されています。天明五年(1785年)、京都の「やすてる卿」という人物が考案し、後桃園天皇に献上した、と。

この話の出どころは、先ほどの『女子技芸摘み細工全書』の緒言です。今から百三十年ほど前、京都に「やすてる卿」と申し上げる方がいらして、この方から始まった。手芸に熱心なあまり奥方の古い衣装を小さく裁ち切り、箸の先を細く削って丸つまみと角つまみの折り方を考え出した。手の甲に糊を延ばし、まず丸つまみで薬玉の簪を作った。さらに竹を曲げて今日のピンセットのような道具を工夫し、下げ薬玉を作って時の後桃園天皇に献上したところ、たいそうお気に召した。それ以来、宮仕えの侍女たちも慰みにつまみ細工を作るようになった、という話です。

私たちも、この記事を書き起こした時点では、この話を軸に据えるつもりでいました。けれど公開前に裏を取り直して、扱いを改めました。

国立国会図書館デジタルコレクション全体の全文検索で、この人物の名を摘み細工とともに含む資料は、この一冊しか出てきません。英語圏のサイトが挙げる出典も、辿るとすべて同じ本、一九一四年の吉岡房次郎に帰着します。日本語圏と英語圏の両方が、同じ一冊を水源にしているのです。

年代も合いません。後桃園天皇の在位は明和七年から安永八年(1770年から1779年)で、1779年に崩御されています。「百三十年ほど前」を大正三年から逆算すると1784年ごろになり、在位を外れます。天明五年(1785年)という年で語られる場合も同じです。

さらに、五年前に出た『摘み細工指南』(明治四十二年=1909年)は、発明者を詳らかに知ることはできない、としか書いていません。専門家が、自分の分野の起源について「分からない」と正直に書いている。その五年後の本に、突然、固有名と献上先が現れる。

ここで、はっきり書き分けておきたいことがあります。

この人物の実在を支える同時代の史料は、いまのところ見つかっていません。けれど「見つかっていない」は「存在しなかった」ではありません。全書自身が「申し伝えられております」と伝承の形で書いており、口伝であれば文献には残りません。デジタル化されていない資料は検索の範囲外です。花街側の資料にこの話が出てこないことも、否定の材料としては弱いものです。

ですから、いま誠実に言えるのはここまでです。これは「大正三年の本に、そう言い伝えられていると書かれている話」である。それ以上でも、それ以下でもありません。

伝承は、飾りではなく作り方だった

とはいえ、この緒言には捨てがたいところがあります。

伝説に出てくる「下げ薬玉」の仕様が、同じ本の実習編に載っている薬玉の作り方と、数字まで一致するのです。房は五色を取り混ぜて十二本。緒言の伝説がそう語り、本文の制作指示も、細い五色の打紐を取り交ぜて十二本を貼り付けよ、と指示しています。

つまり著者にとって、この起源譚は本の冒頭に置いた飾りではありませんでした。大正三年の時点で、実際に手を動かすときの規範として生きていた。伝説と作り方が地続きになっている。起源の真偽とは別に、ここは面白いところだと考えています。

いま、一次資料から言えること

整理します。

嘉永六年ごろ、三都で「花簪」と呼ばれる品が売られていた。竹串に縮緬の造花を付けたもので、買うのは幼女で、芸妓が挿すのは稀だった。これは一次資料が書いていることです。

明治十年、東京の博覧会に、羽二重の花簪を出品した「花簪屋」が実在した。これも記録があります。

明治十九年、大阪で修業した男が東京でつまみ細工の花簪を売り出し、内職と職人の層が厚くなった。これは四十五年後の本人の回想です。

明治十四年、吉岡男成が摘細工の教授所を開いた。新聞の訃報は彼を「摘細工の創始者」と呼んでいます。

そして京都の「やすてる卿」の話は、大正三年の一冊にだけ残る伝承です。

「江戸時代から続く」は、間違いではありません。ただ、その江戸時代の花簪は、いまの舞妓の花簪とはずいぶん違う顔をしていた。そこまで書いて、はじめて歴史を語ったことになると思っています。

なぜ、私たちがこれを調べるのか

つまみ細工は、絹の小さな布を一枚ずつ折り、寄せ集めて花にする手仕事です。京都 おはりばこは、この技で髪飾りを作り、教室でお伝えしています。

作り方は受け継がれてきました。けれど、それがどこから来たのかは、意外なほど曖昧なまま語られてきたと感じています。だからこそ、伝聞ではなく原典にあたる。分からないことは分からないと書く。裏が取れたら、自分が前に書いたことでも直す。その姿勢で、これから何回かに分けて、一次資料から読めることをご紹介していきます。

手を動かしながらこの歴史に触れてみたい方は、教室でお待ちしています。京都の教室についてオンライン講座について

ご自宅で試してみたい方には、絹地や道具もご用意しています。つまみ細工の材料と道具

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出典

喜田川守貞『類聚近世風俗志(原名 守貞謾稿)』国学院大学出版部、明治41年(1908年)刊。稿は嘉永6年(1853年)ごろ。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1053410(花簪の定義はコマ176、売り場と着用者はコマ206)。

篠田鉱造 編『明治百話』四條書房、昭和6年(1931年)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1236333、コマ150から152(220頁から222頁)。「花簪の元祖 花龜」。

『明治十年内国勧業博覧会出品目録』。国立国会図書館デジタルコレクション PID 801848、コマ94。「黄銅羽二重花簪 浅草聖天町 花簪屋巳之助」。

東京日日新聞 明治41年11月20日「摘細工の創始者」。『新聞集成明治編年史』第13巻、国立国会図書館デジタルコレクション PID 1920436、コマ274。吉岡男成の禄高は『本荘市史 史料編4』本荘市、1988年、PID 9571983 コマ471。

山田興松『摘み細工指南』博文館、明治42年(1909年)12月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 848808(パブリックドメイン)。

吉岡房次郎『女子技芸摘み細工全書』大倉書店、大正3年(1914年)2月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1185204。

現代語訳と要約は京都 おはりばこによります。原本の判読が確定していない箇所は、その旨を本文に記しました。

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