
仕事としてのつまみ細工 ── 明治の内職と職人の記録
つまみ細工を仕事にできますか。教室でよくいただくご質問です。
この問いに答えてくれる、古い記録があります。昭和6年(1931年)に出た『明治百話』という聞き書き集の中に、「花簪の元祖 花龜」という一章があるのです。語っているのは、明治の東京で花簪を売り出した本人。四十五年後の回想として、自分の商売の始まりから、職人の数、卸の風景までを話しています。
はじめにお断りしておきます。これは後年の回想であり、しかも「自分が東京での元祖だ」と語る当事者の言葉です。同時代の記録ではありません。それでも、この手仕事がどうやって仕事になっていったのか、その手ざわりは、ほかのどの資料よりも生々しく残っています。
大阪から、東海道を歩いてきた
語り手は、大阪の花簪の製造所で技を覚えた人物です。屋号を「花龜」といいます。本文に実名は出てきません。
その人が、東京にはまだ花簪が流行っていないことに目をつけて、東海道を歩いて江戸へ向かいます。大井川は泳いで渡った、と本人は言っています。
ソレは明治十九年
明治19年、西暦でいえば1886年です。当時の東京は日本髪が全盛でしたが、花簪というものが流行っていない。そこで語り手は、京・大阪の舞子や芸子が挿しているあの花簪を東京で流行らせようと決めます。
御承知のつまみもの花簪を賣出しました。東京には珍らしいつまみ細工
つまみ細工が、商品として東京に持ち込まれた瞬間です。方向は、京・大阪から東京へ。東京が後発だった、ということになります。
流行の本質
売れ始めたきっかけについて、語り手はこう説明しています。
山の手の官員さんのお嬢さん方も、高島田の横にさす料として、花簪がよいとあつて、一人のお酌がさすと、我も彼もとなるのが、流行の本質で、
一人が挿すと、我も彼もとなる。百年以上前の言葉ですが、いまSNSで起きていることと、そう変わりません。
内職では、間に合わなくなった
そして、この記事でいちばん大事な一節です。
私や家族の手や、内職に雇つた女手位では、間に合はなくなつてしまつた。 不取敢大阪から知つた手合を呼びましたほどの忙しさでした。
「内職に雇った女手」。明治19年の東京で、つまみ細工はすでに内職として人に頼む仕事になっていました。手が足りなくなり、大阪から知り合いの職人を呼び寄せた、と。
その先に、こうあります。
果は市内に二百人からの家持職人が出來ました。
これは自分の店の職人数ではなく、東京市内の同業の規模を言っています。ひとつの流行が、二百軒の生業を生んだ。つまみ細工が「仕事」になった、という言い方ができる数字だと思います。
桐の平箱と、萌黄の風呂敷
卸の現場の描写も残っています。
十段仕切の桐の平箱を持たせ、ソノ一つ〳〵に各種類の花簪をギッシリ詰めさせ、萌黄の風呂敷で包んで、背負ては各問屋や小賣店へ卸させました。
十段に仕切った桐の平箱。その一つひとつに、種類ごとの花簪をぎっしり詰める。萌黄色の風呂敷で包んで背負い、問屋と小売店を回らせる。
作る話ではなく、運んで売る話です。手仕事が商売として立ち上がるとき、この部分が必ず要ります。
さらに語り手は、こうも言っています。
花簪は大阪へ逆移出をする
大阪から東京へ持ち込んだ男が、逆に大阪へ送り返すまでになった。流れが往復しています。
相場としては、上物だった
同じ頃の値段が、別の資料に残っています。
明治25年(1892年)5月の『婦女雑誌』が、その年の流行りの花簪を紹介しています。あやめや杜若は縮緬の撮み細工と鯨製のものが多い、として、値段をこう書いています。撮み細工は三四銭より七八銭、上等は十四五銭。鯨製は二三銭より上等で五六銭。
つまみ細工は、鯨製のおよそ倍以上です。安物ではなく、上物の側にありました。
国が「絹を食うから高い」と書いている
その値段には理由があります。
明治28年(1895年)、京都の岡崎で開かれた第4回内国勧業博覧会の審査報告に、大阪から出品された絹の細工についての講評があります。細かな襞を寄せた薬玉を褒めたあと、こう続きます。
其用料ニ絹帛ヲ費ス多ク、隨テ價値ノ貴キヲ致ス
絹を多く使うから、値段が高くなる。そして、出品されたものの多くが売れなかったことにも触れ、世間の好みを広げられなかったのだろう、と結んでいます。
百三十年前に、国の審査報告が書いていることです。絹をたくさん使うので高くなる。高いので売れにくい。おはりばこがいま毎日向き合っている問題と、まったく同じです。
制度上の扱いも、追い風ではありませんでした。大正6年(1917年)の登録商標の商品分類では、花簪は「玩具、遊戯具、造花及花簪ノ類」という区分に置かれています。国の分類の上では、安価な雑貨と同じ棚に並んでいたことになります。
高い材料で作られる上物なのに、制度は雑貨として数える。この食い違いは、当時から続いていました。
大正8年の手引書に残る、手取りの数字
もう少し時代を下ると、内職としての具体的な数字が出てきます。大正8年(1919年)の『婦人家庭内職』という手引書に、つまみ細工の章があります。以下は、その内容の要旨です。
主力商品は簪ではなく、櫛でした。簪は十八銭前後、櫛は五十銭から一円五十銭。桁が違います。仕事としては櫛と簪が主なもので、なかでも櫛の需要がかなり多い、とされています。
もっとも多く出るのは、一個七、八十銭の櫛。売値七十五銭の櫛で材料費が約二十二銭、差額の五十三銭が工賃にあたります。ただしここから売値の一割が仕事の取次料として引かれるため、手取りは四十五銭五厘ほど。売値九十銭の櫛なら、材料費が約二十五銭、手取りは五十六銭ほどとされています。
生産速度は、一日一本、上手になれば日に二本。ここから、一日一円の収入を得ることは決して難しくない、と結論づけています。
仕事の流れも書かれています。習う道は講習会と個人教授で、講習料は一週間で二円、月に二回で月々四円。そしてこの講習会が、そのまま元請けを兼ねています。先方が櫛の注文を取ってきて、講習を終えた人にやらせ、売ってくれる。売値の一割が取次料として引かれるのは、この構造ゆえです。
製品の行き先も出てきます。下谷の商店が扱い、白木屋から三越あたりへも捌けている、と。明治42年(1909年)の教本『摘み細工指南』の時点では「材料店で売る」段階だったものが、十年で問屋と百貨店の流通に乗っています。
そして章の締めくくりに、蝶ひとつが五十円という高値で売れたこともある、という話が出てきます。ただし、そこまでできるようになるには三年近くかかる。その代わり、そこまで漕ぎ着ければ収入は何でもない、と。
一日一本の櫛で四十五銭。その同じ技術の先に、ひとつ五十円の蝶がある。技術の天井が、はっきり示されています。
なお、この手引書は著作権の保護期間が続いており、逐語での引用ができません。ここでは数値と要旨の紹介にとどめています。
十年前の教本も、同じことを書いていた
明治42年の『摘み細工指南』にも、収入の話が出てきます。
著者は、十年ほど前に親のいない一人の女性にこの技術を二、三年のあいだ仕込んだ、と書いています。その人はいまでは立派に独立して弟子も養っており、平均して一ヶ月に三十円ほどの収入がある、と。
ただし、そのあとが厳しい。婦人として独立し十分な収入を得るまでの熱心な人は、まことに少ないのが残念だ。これまで多くを養成したなかでも、男子はたいてい成功しているが、女子ははなはだ少ない、と続けます。
技術を教えれば仕事になる、という単純な話ではなかった。教えていた本人がそう書いているのは、正直な記録だと思います。
始めるのに、元手が要らない
もうひとつ、この手仕事の性格を決めていることがあります。
大正8年の手引書は、用具はピンセットと鋏と糊さえあれば足りると書いています。しかも講習会では材料を全部貸してくれる、とも。始めるための投資が、ほとんど要りません。
明治42年の教本も同じ点を強調していました。造花は器械を扱う必要があり、資本も多額を要し、ものによっては男子の手を借りねばならない。それに比べてつまみ細工は、資本の点でも器械の点でもかえって適当だ、と。
道具が少なく、材料もわずかで、それでいて緻密なものであればずいぶん高価なものを作ることができる。この本にはそう書かれています。百年経っても、ここは変わっていません。
分かっていないこと
正直に書いておきます。
『明治百話』の語り手が誰なのかは、確定していません。本文に実名はなく、屋号「花龜」と「東京での元祖」という自称だけが手がかりです。大正7年の大阪の実業団体一覧に「花龜花簪製造所」(南区下寺町)という店が載っていますが、東京の語り手と同じ人物なのかは証明できていません。
「二百人からの家持職人」という数字も、四十五年後の当人の話です。ほかの資料で裏を取れてはいません。
それから、この章には売り上げの総額らしき数字も出てきますが、こちらの読み取りが一度きりで確定していないため、この記事では扱いませんでした。
分かっていないことは、分かっていないと書いておきます。
いまの話に戻すと
明治19年の東京で、つまみ細工は内職から始まり、二百人の職人を生む商売になりました。大正8年には、一日一本の櫛で四十五銭という具体的な手取りが記録されています。その一方で、明治28年の国の審査報告は、絹を使うから高い、高いから売れにくい、と書いていました。
売れる形も、値段も、流通もまるで違いますが、この手仕事の骨格はあまり変わっていません。身軽に始められて、上達に応じて作れるものが変わっていく。そして、絹を使う以上、安くはならない。
おはりばこの教室では、基礎から順にお伝えしています。作れるものが増えていく道すじは、百年前の記録が書いていることと、そう遠くありません。京都の教室について/オンライン講座について
道具と絹地はこちらでご用意しています。つまみ細工の材料と道具
このシリーズの他の記事
国立国会図書館の一次資料から、つまみ細工の歴史を読み解いています。
出典
篠田鉱造 編『明治百話』四條書房、昭和6年(1931年)、「花簪の元祖 花龜」の章(220頁から222頁)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1236333。
『婦女雑誌』明治25年(1892年)5月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1580040。
『第四回内国勧業博覧会審査報告』明治28年(1895年)、第六類其八「造花」。国立国会図書館デジタルコレクション PID 801946。
『日本登録商標大全』第9輯下、大正6年(1917年)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 941557。
高橋桂二 編『婦人家庭内職』精禾堂、大正8年(1919年)、「摘み細工」の章。国立国会図書館デジタルコレクション PID 961553。この資料は数値と要旨の紹介にとどめています。
山田興松『摘み細工指南』博文館、明治42年(1909年)12月。国立国会図書館デジタルコレクション PID 848808。
引用の読み下し、現代語訳と要約は京都 おはりばこによります。金額はいずれも当時のものです。

