明治のつまみ細工の看板商品は「薬玉」だった|3つの史料が指している
つまみ細工の歴史をたどっていて、同じ言葉が何度も出てくることに気づきました。薬玉(くすだま)です。花を集めて球にした、あの飾りです。
明治20年頃の流行、明治31年の博覧会の褒賞、明治41年の博覧会の出品作。**別々の場面を書いた3つの記録が、そろって薬玉を指しています。**今回はその3つを並べて読みます。
連載のこれまで:つまみ細工は日本固有の手芸なのか/なぜつまみ細工は広まらなかったのか/1908年、博覧会に出たつまみ細工は薬玉だった/1909年、「外国の客は一枚ずつ折っていることを知らない」
一、明治20年頃 ── 16、17歳の女性は「必ず」挿していた
明治42年(1909年)の教本『摘み細工指南』の終盤に、著者の山田興松が意匠の移り変わりを回想した節があります。原文はこうです。
此の細工の最も盛になり初めたのは明治二十年頃からであつて簪として流行したものであります、其當時の十六七歳の女子は必ず藥玉簪の長い房のものを挿したものであります只今のハイカラ頭から見ると實に優美であります
「この細工が最も盛んになり始めたのは明治20年頃からで、簪として流行したものです。その当時の16、17歳の女性は、必ず薬玉簪の長い房のものを挿したものです。今どきのハイカラ頭から見ると、実に優美であります」。
この頁の欄外見出しには、「島田髷に藥玉の簪」とあります。

ここで注意しておきたいことがあります。著者が明治20年頃としているのは「流行の始まり」であって、つまみ細工の起源ではありません。この一節から「つまみ細工は明治20年に始まった」とは読めません。ただ、明治42年に現役で働いていた職人が、自分の記憶として「あの頃から盛んになった」と書き残している。その重みはあります。
同じ節には、当時の流行品も具体的に挙がっています。島田の両差、針打、一文字の根掛、耳かき付の角足摘みの簪。そして著者は「これらのうち流行品の意匠は多く私の手に成ったもの」と書いています。自分が流行を作った側だ、という書きぶりです。
二、明治31年 ── 褒賞5点のうち2点が薬玉
同じ本に、明治31年(1898年)の第一回婦人製品博覧会の褒賞状が、そのまま転記されています。受賞したのは全員、著者の門下生です。

褒賞状の本文には、審査長・正五位勲三等 山高信維、会務総長・従四位 三井八郎次郎、名誉総裁・勲一等 小松頼子の名が並び、「明治卅一年五月十日」「右薦告ニ由リ茲ニ之ヲ授與ス」と結ばれています。受賞の内訳は次のとおりです。
| 賞 | 品目 | 製作者 |
|---|---|---|
| 褒賞一等 | 電氣入造花摘みモール細工 | 小西みつ |
| 前同文 | 摘細工菊鉢植 | 吉田なほ |
| 前同文 | 摘細工藥玉 | 久保田はる |
| 前同文 | 摘み細工藥玉 | 岡村くに |
| 前同文 | 摘み細工四季草花 | 佐々木かぬ・金子とみ 両人 |
5点のうち2点が薬玉。単一の形としては最多です。菊鉢植、四季草花、モール細工と、ほかは題材がばらけているなかで、薬玉だけが2人重なっています。
もうひとつ、この表を見て思うことがあります。受賞者は6名、全員が女性で、実名が残っています。小西みつ、吉田なほ、久保田はる、岡村くに、佐々木かぬ、金子とみ。128年前にこの手仕事で賞を受けた人たちの名前が、こうして読める形で残っている――それ自体が、この史料の値打ちだと思います。
三、明治41年 ── 博覧会に出たつまみ細工も薬玉だった
前回の記事で読んだ、東京勧業博覧会の審査報告です。明治41年(1908年)、つまみ細工の出品は1名・2点。審査官はその作品をこう書いています。
僅ニ數十個ノ摘花ヲ集メテ藥玉ヲ作リ室内裝飾品ニ擬シタルニ過キス
「わずかに数十個のつまみ細工の花を集めて薬玉を作り、室内装飾品に見立てたものにすぎない」。国の博覧会にただ一人が出した2点も、薬玉でした。
そして明治42年、「まだ流行が続いている」
3つの記録に加えて、もう一行あります。褒賞状を転記する直前で、著者はこう書いています。
當時も尚殘りて流行をして居ります摘み藥玉其他種々の意匠を施したるものが當時に於ても其まゝ流行して居るものも尠くないのです
「当時もなお残って流行している摘み薬玉、その他さまざまな意匠をほどこしたもので、当時のままいまも流行しているものが少なくないのです」。
明治20年頃に流行り始めた薬玉簪が、執筆時の明治42年になってもまだ流行が続いていると、著者自身が書いています。20年以上です。
もうひとつ、この節にある指摘も書き添えておきます。著者によれば、花簪は以前「櫛に無地金を貼つたもの」ばかりだった。それを全面つまみ細工に変えたものが、当時の新しい流行だった――と。金箔を貼った櫛から、絹の花で覆う櫛へ。その転換のなかに薬玉があった、ということになります。
史料が語ること、語らないこと
この4つの記述が示しているのは、明治20年頃から明治42年までの20年余りにわたって、薬玉がつまみ細工の代表的な形であり続けたということです。流行として、褒賞の対象として、博覧会の出品作として、そして執筆時点でも現役の流行として、別々の文脈に繰り返し現れます。
ただし、これを「薬玉が当時の売上一位だった」とは書けません。売上の統計はどこにも残っていません。分かるのは、4つの異なる記録に薬玉が現れるという事実だけです。また明治20年頃という年代も、著者の回想であって、記録に基づく数字ではありません。私たちは、史料が語っている範囲でお伝えします。
京都 おはりばこについて
京都 おはりばこは京都・西陣で、正絹とでんぷん糊を用いたつまみ細工のかんざし・和装小物を作り続けています。薬玉も、いまも作っています。数十個の花を折って球にする――その形は、少なくとも138年前から変わっていません。
出典
山田興松『摘み細工指南』博文館、明治42年(1909)12月。「摘細工の意匠の變遷と流行」258-259頁、「門生の第一回婦人博覽會出品摘細工の成績」259頁。国立国会図書館デジタルコレクション PID 848808(DOI: 10.11501/848808)、コマ143。パブリックドメイン。
『東京勧業博覧会審査報告 巻七』明治41年(1908)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 801790(国立国会図書館の書誌上は巻3)、コマ73。パブリックドメイン。
引用はいずれも原本画像から翻刻したものです。
