
1908年、博覧会に出たつまみ細工は「薬玉」だった|審査官が書き残した一節
1908年(明治41年)、日本の博覧会に出品されたつまみ細工の作品は、たった2点でした。出品者は1名。そしてその作品は、数十個のつまみ細工の花を集めて作った薬玉(くすだま)でした。審査官はそれを見て、まず「特に評する必要もなさそうだ」と突き放し、その直後に一行、こう書き足しています。「然レトモ(しかしながら)――決して軽視すべきものではない」。
これまで2回、明治42年(1909年)の教本『摘み細工指南』から史料を読んできました。今回はその前年、博覧会の審査報告に残された一節を、原文のまま読みます。
史料について
『東京勧業博覧会審査報告 巻七』、明治41年(1908年)刊。国立国会図書館デジタルコレクションで、PID 801790として全頁が公開されている、博覧会の審査結果をまとめた官庁刊行物です。刊行から100年以上が経過し、パブリックドメインとして誰でも閲覧できます。
該当箇所はコマ73、「第十三部 第百二十類ノ二」に分類された「押繪及摘細工品」の項です。押絵(布を綿で盛り上げて貼る、羽子板などの技法)とつまみ細工、二つの手芸をまとめて評価した項で、審査官は中村孝・井手馬太郎・吉武榮之進・笠原吉太郎の4名。
出品規模は、この項の全体で東京府から人員2名・点数6点、褒賞は三等賞1点と褒状1点でした。ただしこれは押絵とつまみ細工を合わせた数字です。つまみ細工だけを取り出すと、報告書は「摘花細工製品ニ係ル出品人員一名 出品數二點」――出品者1名、作品2点と明記しています。
前々回の記事:つまみ細工は日本固有の手芸なのか/前回の記事:なぜつまみ細工は広まらなかったのか
出品作は、つまみ細工の花を数十個集めた薬玉だった
報告書は、その2点がどんな作品だったかまで書き残しています。原文はこうです。
摘花細工製品ニ係ル出品人員一名出品數二點ニシテ其製品ハ從來簪ニ用キ來リタルモノト少シモ異ナラス僅ニ數十個ノ摘花ヲ集メテ藥玉ヲ作リ室内裝飾品ニ擬シタルニ過キス故ニ特ニ評隲スルノ要ナキニ似タリ

現代の言葉にすると、こうなります。「摘花細工(つまみ細工)の出品は1名、2点である。その製品は、従来から簪に用いられてきたものと少しも変わらない。わずかに数十個のつまみ細工の花を集めて薬玉を作り、室内装飾品に見立てたものにすぎない。よって、特に評価を下す必要もなさそうである」。
審査官の筆は、はっきりと冷ややかです。技法は簪に使われてきたものと同じ。それを数十個集めて球にして、室内装飾に仕立てただけ。新しいものは何もない――そう読める書きぶりです。
ただしこの一節は、つまみ細工の薬玉が明治41年の時点ですでに作られ、博覧会に出品されるだけの作品として成立していたことを示す記録でもあります。私たちが今も作っている薬玉は、少なくとも118年前には、同じ「つまみ細工の花を集めて球にする」という形で存在していました。
「然レトモ」――その直後に、審査官は評価を反転させる
そして報告書は、そのまま次の一文へ続きます。
然レトモ摘花作品ナルモノ決シテ輕視スヘカラス其應用意匠考案ノ宜シキヲ得テ輸出品等ニ利用スルヲ得ハ更ニ今日ノ面目ヲ一新スルモノアラン當業者ノ熟考センコトヲ望ム
現代の言葉に置き換えると、こうです。「しかしながら、摘花作品(つまみ細工の作品)というものは、決して軽視すべきではない。その応用・意匠・考案がうまくいって、輸出品などに利用することができるなら、この手芸は今日の面目を一新するものになるだろう。同業者が深く考えることを望む」。
この記事で一番おもしろいのは、この「然レトモ」だと思っています。目の前の出品作には評価すべき点がない、と書いた審査官が、筆を止めずにそのまま反転させている。作品ではなく技法そのものに価値を見て、応用と意匠次第では輸出品になり得ると書き、最後に「當業者ノ熟考センコトヲ望ム」――同業者はよく考えてほしい、と呼びかけて締めているのです。
出品作を褒めるための社交辞令ではありません。褒めなかった上で、それでも書き残された一節です。
これは「政策」ではなく、審査官の評価だった
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。この一節は、博覧会に出品された作品を評価する審査報告の一部であり、政府がつまみ細工を輸出振興の対象に指定した政策文書ではありません。書いたのは審査を担当した4名の審査官であり、彼らが出品作を見て下した専門的な評価・提言です。「日本政府がつまみ細工を輸出品にすると決めた」という事実は、この史料からは読み取れません。私たちが確認できるのは、「博覧会の審査官が、報告書という公式の記録の中で、そう評価し、そう提言した」という一点です。
なお同じ項の直前には、押絵について「尚進ミテ海外輸出品ヲ製造スルノ機運ニ至ラハ斯業ノ發展モ亦期シ難キニ非ス」(さらに進んで海外輸出品を製造する機運に至れば、この業の発展も期待できないことはない)という、より踏み込んだ記述があります。ただしこちらは押絵についての評であって、つまみ細工の評ではありません。混同しないよう、ここに書き添えておきます。
翌年、教本は「近時盛んに流行り始めて」と書いた
この報告書が出た翌年、明治42年(1909年)に刊行された『摘み細工指南』(山田興松著)には、こう書かれています。
此の摘み細工の技藝が近時盛んに流行ばれ始めて、各技藝學校并に高等女學校等の技藝科に造花と共に加へられ、又賣品としては種々の意匠を施し之を各方面に應用して店頭に陳列さるゝを見受ける様になりました
つまり「このつまみ細工という技芸が、近ごろ急に流行り始めて、各種の技芸学校や高等女学校の技芸科に、造花とともに加えられるようになった。また商品としても、さまざまな意匠を施し、各方面に応用して店頭に並ぶのを見かけるようになった」――1908年に「出品1名2点」と記録された手芸について、そのわずか1年後に、著者自身がそう書いているのです。
ここでも、書き分けが必要です。審査報告の一節が、翌年の流行の「原因」になったという証拠はどこにもありません。史料が示しているのは、2つの記述が1年違いで残っているという時系列だけです。審査官の提言と翌年の流行の記述をつなげて「これがきっかけだった」と語ることは、史料にない物語を足すことになります。私たちはそれをしません。ただ、1908年に「輸出品にもなり得る」と書かれた手芸が、1909年には「近ごろ盛んに流行り始めた」と記されている――この2つの事実を、そのまま並べてお伝えします。
史料が語ること、語らないこと
この史料が示しているのは、次の事実です。1908年、東京勧業博覧会の審査報告において、つまみ細工の出品は1名・2点にとどまり、その作品は数十個の花を集めた薬玉だった。審査官はそれを「従来のものと少しも変わらない」「特に評する必要もなさそうだ」と評しながら、直後に「決して軽視すべきでない」「応用・意匠次第では輸出品に利用でき、面目を一新するだろう」と書き添え、同業者の熟考を促した。
これが政府の輸出振興政策であったこと、この提言が実際に何かのきっかけになったこと、翌年の流行がこの報告書と関係していたことは、この史料からは分かりません。私たちも、史料にないことは書きません。史料が語っていることだけを、そのままお伝えします。
京都 おはりばこについて
京都 おはりばこは京都・西陣で、正絹とでんぷん糊を用いたつまみ細工のかんざし・和装小物を作り続けています。1908年の審査官が「輸出品に利用できれば」と書いた手芸を、今、海外のお客様にお届けしています。史料を読み解く連載は、こちらもあわせてご覧ください。
つまみ細工は日本固有の手芸なのか|1909年の教本が書いていること
なぜつまみ細工は広まらなかったのか|1909年の教本が名指しした原因
出典
『東京勧業博覧会審査報告 巻七』、明治41年(1908年)刊。第十三部 第百二十類ノ二「押繪及摘細工品」。審査官:中村孝、井手馬太郎、吉武榮之進、笠原吉太郎。国立国会図書館デジタルコレクション、PID 801790、コマ73。パブリックドメイン。引用はいずれも原本画像から翻刻したものです。

