
1909年、「外国の客は一枚ずつ折っていることを知らない」と書かれていた
明治42年(1909年)に出版されたつまみ細工の教本の終盤に、技法の解説をいったん離れて、当時この細工がどこに売れていたか、そして海外の買い手がそれをどう見ていたかを書いた数ページがあります。その中の一文が、今のおはりばこの課題とほとんど同じことを言っています。
其れで此の細工も外國人はこれを一枚づゝ折つてつけて斯く緻密にして拵へると云ふことを知りませぬ 只鹿之子絞りの様な切れを貼つたものと思ふのみであると云ふことです

「外国人は、この細工が一枚ずつ折ってつけて、これほど緻密に拵えられているということを知らない。ただ鹿の子絞りのような布を貼ったものだと思うだけだ、ということです」。
117年前の文章です。そして今も、私たちが最も多く説明していることと、ほぼそのまま同じです。
史料について
山田興松(やまだ おきまつ)著『摘み細工指南』博文館、明治42年(1909)12月刊、全278頁。国立国会図書館デジタルコレクションで、PID 848808(DOI: 10.11501/848808)として全頁が公開されています。著者の没年(1941年)から保護期間が満了しており、国立国会図書館もパブリックドメインと明示しています。
該当箇所はコマ138、本文248頁。著者が「摘細工の海外へ向つての販路と嗜好」と題した節です。同じ頁の欄外見出しには「摘み細工の寫眞挾み」とあります。
著者の山田興松は造花技術校の校主で、造花とつまみ細工の両方を修めた人物です。ここでは、自分の商売の輸出について聞き及んだところを書いています。歴史家の記述ではなく、当事者の見聞である点は押さえておきたいところです。
連載のこれまで:つまみ細工は日本固有の手芸なのか/なぜつまみ細工は広まらなかったのか/1908年、博覧会に出たつまみ細工は薬玉だった
1909年、何が輸出されていたか
先ほどの一文の前に、著者は当時売れていた品目を、値段つきで挙げています。
四五年前から金屬製の肩掛止の蝶々の上に此の細工を施したものが能く賣れ行きました直段は安物五錢より二十錢位までのもので近頃は寫眞立の様なものが大層賣れ行きます、一ダース五圓乃至十圓で其他清國へは簪として少しづつ賣れ行くものがあります
- 金属製の肩掛止(ショールピン)の蝶々につまみ細工を施したもの/4〜5年前(=明治37〜38年頃)から/安物5銭〜20銭
- 写真立てのようなもの/「近頃」大層売れている/1ダース5円〜10円
- 簪/清国へ少しずつ
ここで目を引くのは、載っていないもののほうです。西洋向けの輸出品は、かんざしではありませんでした。ショールピンと写真立て――つまり向こうの家庭がすでに使っている物の上に、つまみ細工を載せたものです。かんざしとして出ていた先は、清国でした。
なぜ「絞りの布」に見えたのか
鹿の子絞りは、布を小さく糸で括ってから染める絞り染めです。染め上がると、粒状の凹凸が一面に並びます。「鹿の子」の名は、子鹿の背の斑点から来ています。表面が細かく盛り上がった布地です。
つまみ細工の花を横に置いてみると、見間違える理由がわかります。小さく折った絹の花びらを数十枚、数百枚と寄せた面もまた、少し離れれば「細かい凹凸の並んだ布地」に見えます。作る場面を見たことがなければ、模様のある布を切って貼ったのだろうと考えるのが自然です。
その凹凸のひとつひとつが、別々の絹の四角い布で、ピンセットで折られ、切り口をでんぷん糊につけて、手で置かれている――写真からは、それが見えません。
著者の結論は、そのすぐ後に続きます。
故に是も充分に要領が解り又直段も安く仕上ぐることにでもなれば更に多く賣れ行きの見込みある品であります
「だからこれも、十分に要領が理解され、また値段も安く仕上げられるようになれば、さらに多く売れる見込みのある品である」。
条件は2つ、そしてこの順序です。理解されること。そのうえで、安くなること。著者は、理解を先に置いています。
史料が語ること、語らないこと
これは1909年に、ひとりの職業人が、自分の細工が海外でどう受け取られているかについて聞き及んだところを書いたものです。市場調査ではありません。買い手の名も、西洋のどの国かも、その情報をどこから得たかも書かれていません。文末も「と云ふことです」と伝聞で結ばれています。ですから「海外の買い手は絞りの布だと思っていた」を、全輸出市場についての立証された事実として扱うことはできません。この史料が示しているのは、1909年に働いていた日本の職人が、これを課題だと考え、当時の売値と並べて活字にしたという一点です。
1909年から今日まで一本の線が通っている、という書き方もしません。彼が書いている商売――ショールピンと、ダース単位で売る写真立て――は、私たちの商売とは別のものです。私たちが目を留めたのは、もっと狭いところです。彼が言い当てた誤解の中身と、2つの条件を並べたその順序です。
変わっていない部分
おはりばこは、かんざしとつまみ細工の材料を海外のお客様にもお届けしています。そこで最も多く説明することになるのは、まさに山田興松が1909年に書き留めたことです。花びらはプリントではなく、模様の布でもなく、型で抜いたものでもない。一枚ずつ、正絹の四角い布を、ピンセットで手で折っている。
写真は、それを平らにしてしまいます。これは今日の商品ページでも、1905年に海外の店先に並んだショールピンでも、同じことです。折る場面が見えなければ、出来上がった物の側には、それを告げるものが何もありません。
だから私たちは、こうして記事を書き、作る場面を撮っています。この工芸を守るためではありません。最初の教本を書いた人が気づいていたとおり、これは、放っておいても自分から説明してくれない工芸だからです。
京都 おはりばこについて
京都 おはりばこは京都・西陣で、正絹とでんぷん糊を用いたつまみ細工のかんざし・和装小物を作り続けています。花びらは一枚ずつ、自分たちの工房で折っています。
出典
山田興松『摘み細工指南』博文館、明治42年(1909)12月。「摘細工の海外へ向つての販路と嗜好」248頁。国立国会図書館デジタルコレクション、PID 848808(DOI: 10.11501/848808)、コマ138。パブリックドメイン。引用はいずれも原本画像から翻刻したものです。

