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記事: 花簪はどこから来たか。江戸の本は「吉原の禿の真似」と書いていた。

『古事類苑』器用部三 花簪の項。江戸の証言が並ぶ
つまみ細工

花簪はどこから来たか。江戸の本は「吉原の禿の真似」と書いていた。

以前この連載で、幕末の風俗記『守貞謾稿』が花簪を「皆幼女の所用のみ」と書いていることをご紹介しました。三都の小間物店で売られ、花見の場でも売られ、挿していたのは幼女。芸妓が挿すのは稀。

意外な話でした。「つまみ細工といえば舞妓の花簪」という現在の常識とは、ずいぶん違います。

では、なぜ子どもが挿したのか。その先を調べていて、答えらしきものに行き当たりました。

「畢竟よし原の禿のあたまを眞似たるなり」

『賤のをだ巻(しずのおだまき)』という随筆があります。江戸の風俗の移り変わりを、老人が回想する形で書いた本です。

そこに、流行の衣服の色を語る流れで、こんな一節があります。

又子どもは花かんざしとて、略美しく花を付たるかんざしをさせり、是は畢竟よし原の禿のあたまを眞似たるなり

子どもには花かんざしといって、美しく花を付けたかんざしを挿させていた。これはつまるところ、吉原の禿の頭を真似たものである、と。

禿(かむろ)は、遊女に付き従う少女のことです。年齢は十歳前後。髪を結い、髪飾りを付けた姿で街を歩きます。

その姿を、町の子どもたちが真似た。あるいは、親が真似させた。

同じ一節は、当時の流行り歌も書き留めています。

丁子茶と五寸もやうに日傘朱ぬりの櫛に花のかんざし

丁子茶の着物、五寸模様、日傘、朱塗りの櫛に花のかんざし。これが当世の装いだと、貴賤を問わず口ずさまれていた、と。花かんざしは、その一揃いの中にありました。

江戸の証言が、一頁に集まっている

この記述は、『古事類苑』という大部の類書の「花簪」の項に収められています。明治から大正にかけて国が編んだ、古今の文献を分類して集めた本です。

その一頁が、なかなかのものでした。江戸の花簪をめぐる証言が、まとめて並んでいるのです。

『賤のをだ巻』 ── 子どもの花かんざしは吉原の禿の真似。

『浪花の風』 ── 大坂では女も子どもも銀のかんざしは稀で、多くは絹や紙で作った花簪など「下直(値の安い)の品」を使う。これは中流以下の風俗である。

『歴世女装考』 ── 裁細工の花かんざしは、京都製がとりわけ細工が優れている。値は安く、質素で品がよい。

『我衣(わがころも)』 ── 元文・寛保のころ(1736年から1744年)には、舞子が金銀で梅の枝に色紙短冊を付けたものを挿していた。歩くと音がするようにこしらえてあった。

『守貞謾稿』 ── そして守貞自身が、こう書き添えています。

守貞云、是近世花簪ノ初トモ、又中興トモ云ベシ

これこそが近世の花簪のはじまりとも、あるいは中興ともいうべきものである、と。

花簪は、二つの流れが合わさったものらしい

『古事類苑』器用部三 花簪の項。江戸の証言が並ぶ
『古事類苑』器用部三の花簪の項。賤のをだ巻・浪花の風・歴世女装考・我衣・守貞漫稿が一頁に並べて引かれている。国立国会図書館デジタルコレクション PID 897878 コマ52

これらを並べると、おぼろげに筋が見えてきます。

十八世紀前半、元文・寛保のころ。舞子が金銀で作った、歩くと音の鳴る簪を挿していた。素材は金属です。まだ布ではありません。

十八世紀後半から十九世紀初め。吉原の禿の髪飾りが、町の子どもたちに真似られて広まった。

寛政から享和のころ(1797年から1807年あたり)。『歴世女装考』によれば、さるお屋敷の女中が布で花かんざしを作りはじめ、しだいに職人の仕事になった。

弘化から嘉永のころ(1840年代から1850年代)。三都の小間物店で「花簪」が売られ、買うのは幼女。京都製がとりわけ優れている。

金属の簪という流れと、布で花を作るという流れ。この二つが十九世紀の初めごろに合流して、いま私たちが花簪と呼ぶものになった。そう読むのが、いまの資料からは自然に思えます。

守貞が「初とも中興とも」と迷った書き方をしたのも、そのあたりの事情かもしれません。まったく新しいものでもなく、かといって昔からあったものでもない。

迷子除けの目印だった

もうひとつ、守貞は花簪の使われ方を書き留めています。

手習いや三味線の師匠が、男女の子どもたちを連れて花見に出かけるとき、群れからはぐれて迷子になるのを恐れて、みな必ず花簪を頭に挿させた。

目印だったのです。

華やかな飾りであると同時に、実用でもあった。人混みの中で、あの子はどこにいるか。花の付いた頭を探せばよい。

いま七五三やお宮参りで子どもに髪飾りを付けるとき、私たちは「晴れの日の装い」として付けています。けれど江戸の親は、それに加えてもうひとつ、はぐれないようにという理由を持っていた。

二百年前の親の心配が、そのまま形になって残っている。そう思うと、子ども用の髪飾りを作る手つきが少し変わります。

分かっていないこと

正直に書いておきます。

舞妓の花簪がいつからつまみ細工になったのかは、まだ答えを出せていません。

『我衣』の元文・寛保の舞子は、金銀の簪を挿していました。『守貞謾稿』の嘉永ごろには、花簪は幼女のもので、芸妓が挿すのは稀とされています。ところが現在は、舞妓の花簪こそがつまみ細工の代表格です。

どこかで入れ替わっている。その時期と経緯は、まだ資料で押さえられていません。

見つかっていないだけで、探せば出てくるかもしれません。この連載を続ける理由のひとつが、そこにあります。

なぜ、私たちがこれを調べるのか

つまみ細工は、絹の小さな布を一枚ずつ折り、寄せ集めて花にする手仕事です。京都 おはりばこは、この技で髪飾りを作り、教室でお伝えしています。

作り方は受け継がれてきました。けれど、それがどこから来たのかは、意外なほど曖昧なまま語られてきたと感じています。だからこそ、伝聞ではなく原典にあたる。分からないことは分からないと書く。裏が取れたら、自分が前に書いたことでも直す。

手を動かしながらこの歴史に触れてみたい方は、教室でお待ちしています。京都の教室についてオンライン講座について

ご自宅で試してみたい方には、絹地や道具もご用意しています。つまみ細工の材料と道具

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出典

『古事類苑』器用部三、神宮司庁、大正三年(1914年)。国立国会図書館デジタルコレクション PID 897878、コマ52。『賤のをだ巻』『浪花の風』『歴世女装考』二『我衣』『守貞漫稿』からの引用を同一項に収録。

岩瀬百樹(山東京山)『歴世女装考』四巻、弘化四年(1847年)刊。国立国会図書館デジタルコレクション PID 2554341(安政二年版、巻之二本文はコマ65)。

喜田川守貞『類聚近世風俗志(原名 守貞謾稿)』国学院大学出版部、明治41年(1908年)刊。稿は嘉永6年(1853年)ごろ。国立国会図書館デジタルコレクション PID 1053410(花簪の定義はコマ176、売り場と着用者はコマ206)。

引用文はいずれも『古事類苑』所収の活字本文によります。板本との突き合わせが済んでいない箇所については、その旨を本文に記しました。現代語訳と要約は京都 おはりばこによります。

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